無真獣の巣穴

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この物語は誰かを救済しようとはしていない 映画「聲の形」地上波放送記念レビュー

 

最近までメンタルをやられておりましたがそこそこ回復しつつある無真獣です。こんにちは。記事によってですます調であったりである調であったり、一定しないブログですが、その時の気分と雰囲気で変わりますのでご了承ください。

さて、昨夜Eテレにてアニメ映画版「聲の形」が放送されました。原作も読みましたし映画も劇場で観ましたし、色々と思うところの多い作品です。昨夜の放送も録画してあとでちゃんと観ようと思いつつ結局リアルタイムで全部観てしまいました。以下、自分がTwitterに書いた実況感想文の一部です。

 

 

…ええと、すみません、大好きなんですよ聲の形。キャラクターみんなに愛着もある。しかしやはり作品としての感想はこんな感じです。きれいだけど危ういんですよ。そもそもの原作が全然いい話じゃないんです。映画観に行ったときの感想にも色々書いてあります。

 

musinju73.hatenablog.com

 

 で、さらに色々考えたんですよ、昨夜の放送を観ながら。原作含め、この作品の何が危ういと感じるのかと。

メインキャラクターほぼ全員色んな事情を背負いながら、加害と被害の当事者がズタボロになりながら必死にもがいてる。これはそういう物語ですよね。それが元加害者で、被害者でもある主人公の視点で語られる。個別にケアが必要な人同士が、必要以上に頑張っちゃってるんですよ。そして生死に関わるところまでいってしまう。しかも、そこまでズタボロになる必要なんかないんだっていうメッセージが入ってないんですよ。

この作品、大人が大人として機能してないです。大人は信用できない!という信念みたいなものを感じるほどです(まあ現状じゃ結構そんな実感ありますけども…)。そもそもの学校の対応も不十分で。起きるべくして起きてるんですよ、問題が。それは今現在の社会にも言えることで、現状のグロテスクさを反映してるとも言えるのですが、ここまで当事者が頑張らなきゃいけない状況がおかしい!とは誰も言わないんですよね。作中で。委ねちゃってるんですよ、物語の受け手に。これがこの作品のもっとも危ういところだと思います。

さらにそれが恋愛青春エンターテイメントとして、特に映画では非常にきれいに描かれてしまっている。…この作品、障害当事者やいじめ被害者に向けられたものではないと思ってるんです。どちらかというとそうしたことに関心の薄い人々に向けられてると思うんです。あえてフォローを入れず、受け手が考えることに意味がある…という意図があるかもしれませんが、どう頑張っても自分が受け入れやすいものに心が引っ張られるのが人情。そう考えると、こうした題材で受け手に多くを委ねた作品の作りは、だいぶ危険です。

たとえば植野直花というキャラクター。西宮硝子に対して暴行含む相当酷い行動の目立つキャラクターですが、「一理ある」と思わせるような台詞を放つことがあります。映画でも印象的だった「私はあなたについて全然理解が足りなかった」「でもあなたも私のこと理解しなかった」という台詞なんかですね。でもこのキャラクターは両者間でおそらくもっともスムーズにやりとりできる手段であろう筆談を拒否し「あんたの声もちゃんときくよ」と言いつつ相手にもっとも伝わりにくく、自分にとっては楽で有利な音声での会話を要求してるんですよ。
"あなたは自分に都合がいいことを要求するのに、こっちにとって都合のいいことは受け入れない" そういう主張をするキャラクターです。でも問題を抱えていない人が楽にやれること、それができないことこそがハンディキャップですよね。非常に、マジョリティだけに都合のいい理屈です。しかしそこに明確にツッコミを入れる存在が作中にはいません。ひとつの意見として作中にあり、それを受け入れなきゃいけない、声を聞かなきゃと思ってるから被害当事者がもがいちゃう。

この植野というキャラクターも、単に強者の暴走美少女だったわけではありません。原作では結構細かく描かれているのですが、小学校の頃に担任から西宮の世話係を任せられています。そのために自分の勉強が遅れ始め、嫌な顔をすればそれを咎められます。さらによくよく原作読むと分かるんですが、どうやらきょうだいが多い家庭のようで、そこでも「世話係」的な役割があったのかもしれません。
とにかく、自分はしっかり者としてあれこれ任せられて当たり前で褒められもしないのに、西宮は障害を理由に色々な場面で「優遇」され、自分から世話係を名乗り出た佐原は褒め称えられる…しかも西宮に好きな人までとられるかもしれない。「なんで私ばっかり」という不満を募らせたキャラクターです。
明らかに植野にもケアが必要ですよね。でも、それをするべきなのは少なくとも被害者である西宮や佐原や石田じゃありません。その役割を担うのが大人であり、社会なのですが(この場合は学校)そういうフォローを作中で入れてくれないですからね。全体的にそういう感じなんです。自分の理不尽を弱い立場のせいにしてしまう、そういう加害者の理屈がそのまま受け手の心に刺さっちゃうことを止めてくれる何かが足りないんですよね。

 

上映当時、Twitterではこの作品の女性キャラクターの描き方についての批判もあったと記憶しています。作中で加害者側として強烈な存在感を放っていた二人がどちらも女性だったこと、障害当事者が健気でかわいそうな美少女(に見える存在)として描かれていたこと、意図されたものでなくとも、確かに既存のステレオタイプに乗っていると言わざるを得ないでしょう。そもそも加害者男性の視点で障害のある被害者女性との恋愛をにおわせてる時点でかなり危ういのです。

もう一回言いますけど、自分はこの作品、好きなんですよ。愛着がある。地獄みたいな環境、地獄みたいになってしまう経緯を丁寧に描いてくれたから。でも毒にも薬にもなると思っているし、正直インターネットで色んな反応を見て、毒成分の方が多かったかもしれないと思います。映画にいたっては申し訳ないけどパッと見きれいな危険物だと思ってしまいます。まあでも、好きなんです。誰にでもおすすめできるとは、いいがたいですけど。