無真獣の巣穴

らくがきとかゲームとかなんかそんなん。

この物語は誰かを救済しようとはしていない 映画「聲の形」地上波放送記念レビュー

 

最近までメンタルをやられておりましたがそこそこ回復しつつある無真獣です。こんにちは。記事によってですます調であったりである調であったり、一定しないブログですが、その時の気分と雰囲気で変わりますのでご了承ください。

さて、昨夜Eテレにてアニメ映画版「聲の形」が放送されました。原作も読みましたし映画も劇場で観ましたし、色々と思うところの多い作品です。昨夜の放送も録画してあとでちゃんと観ようと思いつつ結局リアルタイムで全部観てしまいました。以下、自分がTwitterに書いた実況感想文の一部です。

 

 

…ええと、すみません、大好きなんですよ聲の形。キャラクターみんなに愛着もある。しかしやはり作品としての感想はこんな感じです。きれいだけど危ういんですよ。そもそもの原作が全然いい話じゃないんです。映画観に行ったときの感想にも色々書いてあります。

 

musinju73.hatenablog.com

 

 で、さらに色々考えたんですよ、昨夜の放送を観ながら。原作含め、この作品の何が危ういと感じるのかと。

メインキャラクターほぼ全員色んな事情を背負いながら、加害と被害の当事者がズタボロになりながら必死にもがいてる。これはそういう物語ですよね。それが元加害者で、被害者でもある主人公の視点で語られる。個別にケアが必要な人同士が、必要以上に頑張っちゃってるんですよ。そして生死に関わるところまでいってしまう。しかも、そこまでズタボロになる必要なんかないんだっていうメッセージが入ってないんですよ。

この作品、大人が大人として機能してないです。大人は信用できない!という信念みたいなものを感じるほどです(まあ現状じゃ結構そんな実感ありますけども…)。そもそもの学校の対応も不十分で。起きるべくして起きてるんですよ、問題が。それは今現在の社会にも言えることで、現状のグロテスクさを反映してるとも言えるのですが、ここまで当事者が頑張らなきゃいけない状況がおかしい!とは誰も言わないんですよね。作中で。委ねちゃってるんですよ、物語の受け手に。これがこの作品のもっとも危ういところだと思います。

さらにそれが恋愛青春エンターテイメントとして、特に映画では非常にきれいに描かれてしまっている。…この作品、障害当事者やいじめ被害者に向けられたものではないと思ってるんです。どちらかというとそうしたことに関心の薄い人々に向けられてると思うんです。あえてフォローを入れず、受け手が考えることに意味がある…という意図があるかもしれませんが、どう頑張っても自分が受け入れやすいものに心が引っ張られるのが人情。そう考えると、こうした題材で受け手に多くを委ねた作品の作りは、だいぶ危険です。

たとえば植野直花というキャラクター。西宮硝子に対して暴行含む相当酷い行動の目立つキャラクターですが、「一理ある」と思わせるような台詞を放つことがあります。映画でも印象的だった「私はあなたについて全然理解が足りなかった」「でもあなたも私のこと理解しなかった」という台詞なんかですね。でもこのキャラクターは両者間でおそらくもっともスムーズにやりとりできる手段であろう筆談を拒否し「あんたの声もちゃんときくよ」と言いつつ相手にもっとも伝わりにくく、自分にとっては楽で有利な音声での会話を要求してるんですよ。
"あなたは自分に都合がいいことを要求するのに、こっちにとって都合のいいことは受け入れない" そういう主張をするキャラクターです。でも問題を抱えていない人が楽にやれること、それができないことこそがハンディキャップですよね。非常に、マジョリティだけに都合のいい理屈です。しかしそこに明確にツッコミを入れる存在が作中にはいません。ひとつの意見として作中にあり、それを受け入れなきゃいけない、声を聞かなきゃと思ってるから被害当事者がもがいちゃう。

この植野というキャラクターも、単に強者の暴走美少女だったわけではありません。原作では結構細かく描かれているのですが、小学校の頃に担任から西宮の世話係を任せられています。そのために自分の勉強が遅れ始め、嫌な顔をすればそれを咎められます。さらによくよく原作読むと分かるんですが、どうやらきょうだいが多い家庭のようで、そこでも「世話係」的な役割があったのかもしれません。
とにかく、自分はしっかり者としてあれこれ任せられて当たり前で褒められもしないのに、西宮は障害を理由に色々な場面で「優遇」され、自分から世話係を名乗り出た佐原は褒め称えられる…しかも西宮に好きな人までとられるかもしれない。「なんで私ばっかり」という不満を募らせたキャラクターです。
明らかに植野にもケアが必要ですよね。でも、それをするべきなのは少なくとも被害者である西宮や佐原や石田じゃありません。その役割を担うのが大人であり、社会なのですが(この場合は学校)そういうフォローを作中で入れてくれないですからね。全体的にそういう感じなんです。自分の理不尽を弱い立場のせいにしてしまう、そういう加害者の理屈がそのまま受け手の心に刺さっちゃうことを止めてくれる何かが足りないんですよね。

 

上映当時、Twitterではこの作品の女性キャラクターの描き方についての批判もあったと記憶しています。作中で加害者側として強烈な存在感を放っていた二人がどちらも女性だったこと、障害当事者が健気でかわいそうな美少女(に見える存在)として描かれていたこと、意図されたものでなくとも、確かに既存のステレオタイプに乗っていると言わざるを得ないでしょう。そもそも加害者男性の視点で障害のある被害者女性との恋愛をにおわせてる時点でかなり危ういのです。

もう一回言いますけど、自分はこの作品、好きなんですよ。愛着がある。地獄みたいな環境、地獄みたいになってしまう経緯を丁寧に描いてくれたから。でも毒にも薬にもなると思っているし、正直インターネットで色んな反応を見て、毒成分の方が多かったかもしれないと思います。映画にいたっては申し訳ないけどパッと見きれいな危険物だと思ってしまいます。まあでも、好きなんです。誰にでもおすすめできるとは、いいがたいですけど。

 

 

 

 

 

 

 

幸せなひとときが奪われないように

 

 いつもならこういうことは増田(anonymous diary)にでも書くのだが、気が向いた…というか少し自暴自棄になっている。そしてマイノリティであり、ゲーマーである一人として、ここに書かねばならないという強い気持ちがあり、今ここに書いておこうと思う。

 

このところ心が死んでいた。とりあえず、何かを楽しもうという気が起きないし、楽しそうな情報を見ても頭に入らないし、Twitterで何をツイートしても自分の言葉じゃないようで、とても気持ち悪い。自分自身にイライラしてツイートを消したりした。しばらくふざけた一言さえ発する気にならなかった。
こうなった原因は色々あるのだが、一番ダメージが大きかったのは、先日話題になった国会議員だかなんだかの話で、それにかの有名な作曲家、すぎやまこういちが関わっていたことだった。
問題となった番組は全部は見ていないが、文字起こしに目を通し、一部分だが動画を見た。それだけでも十分すぎるほど酷かった。あまりにも酷いので動画は貼らない。「生産性がない」「正常な恋愛」そんな言葉が飛び交い、なぜそこで笑うんだろう…というところで笑いが入り、自殺率(この統計の正確性ついては色々ありそうだがこの話の問題はそこではない)の話にさえ笑いを挟み「支援は必要ない」「優先順位は低い」と言う。主に話しているのは杉田水脈という人だが、すぎやまこういちが間に挟む言葉や笑い声、相槌は確かにあれを肯定していた。チャンネル桜のHPにある番組紹介にはこうあった。
「偉大な作曲家にして真の愛国者すぎやまこういちによるプロデュース」
ゲーム、とりわけRPGをたしなむ者として大きな衝撃を受けた。

 

前にもここで書いたような気がするが、自分はLGBTで言うなら広義のTにあたる。トランスジェンダー…性別越境者だとか訳されることもある。実はあまりしっくりこない。
自分は自分のことを女性とも男性とも感じていない。こうした状態を表すのにXジェンダーやノンバイナリーなどの名前があり、それを知ることでとても助けられたのだが、属性の呼び名そのものにはそれほどこだわりがない(何を名乗ってもこっちに来ないでくれと言われそうな気がしている)。
ホルモン治療やオペなどはしていない。相談できそうな病院が近くに存在しないとかお金がないとか、元々体調不良が多いのに身体の負担を増やしたくない、家族にも明かしていないので家族や世間の目が気になるなど挙げたらキリがないほど理由はあるが、そもそも自分には目指すべき身体の形が存在しない。自分の肉体はなんだか違和感のある、へんてこで、しかし必要不可欠で着脱不能の生命維持装置だ。形によって分けられた集団には帰属意識を持たない。持てない。分類は必要な時には必要だと理解しているが、本当は自分はどこにも属したくないのだ。
それにしてもこうして言葉にしてみると、なんだか変な感じがする。自分はどちらでもないんだというアイデンティティが固まってから十数年経つが、本当は "普通" で、ただ特別になりたいだけなんじゃないか、身体の性別から逃げたいだけなんじゃないか、みたいなことをモヤモヤと考えることがいまだにある。そして、自分にとってはいつだって違和感のあるこの状態が "普通" じゃないか、と思い直したりする。
自分の性的指向については正直よく分からない。最近は性的指向と恋愛的指向が分けられることも多い。どちらも自分の指向が確かにあることは感じるが、よく分からない。ゲームでのロマンスならともかく、実際に他人に対して強い欲求を抱いたりはしないし、今のところ深く考える気がない。しかしつらい人生を共に戦い抜く誰かがいたらいいなと思うことはある。それが身体的に同性*1なら、自認がどうであれまわりから見れば同性愛者になるのだろう。

 

自分についてはさておき、正直、自分は少し知っていたのだ。あの作曲家がそういう人だと。でもこうして動画が話題になるまではそれほど関心を持っていなかった。作品そのものには関係ないと思っていたし、年齢的にも保守的なのは当たり前くらいに思っていた。それに作品を楽しみたいからこそ見ないようにしていたのかもしれない。しかし堂々とあの主張に同調しているのを自分は知ってしまったし、もう見て見ぬ振りに戻ることはできない。そして思ったより打ちのめされている。今まで目を背けてきた事実に。
じわじわとダメージが蓄積したのは、例の発言が話題になり数千人がデモを起こす程になっても、すぎやまこういち本人はもちろん、ドラゴンクエストシリーズを看板タイトルとして抱えるスクウェア・エニックスも、何事もなかったかのように黙っていたからだ。
問題の発言は主に杉田水脈という人だ。すぎやまこういちじゃない。しかし、無関係と言うには関係がありすぎる。番組はすぎやまこういちプロデュースと銘打っているし、ホストとしてしっかりあの主張を肯定している。
すぎやまこういちは間違いなく偉大な作曲家で、ドラゴンクエストシリーズにとって彼の存在は非常に大きい。単にスタッフの一人というだけではない。あの世界を作り上げた神の一人と言っていいだろう。彼自身にとってもドラクエの存在は大きいはずだ。すぎやまこういちプロデュースと銘打って箔がつくのは、あのゲームでの功績があってこそだと思う。もちろん他にも偉大な功績があるわけだが、ドラクエは現在進行形の国民的ゲームシリーズだ。本人も、自身の思想を語るときにドラクエの名前を出したりしている。スクウェア・エニックスの社員ではないが、あまりにもその存在は大きい。それでも、スクウェア・エニックスが特に何か声明を出したという話は聞かなかった。

 

例の件についてスクウェア・エニックスから回答を得たという海外の記事をひとつ見つけることができた。

www.animenewsnetwork.com英語が苦手で機械翻訳に頼っているため正確に理解していないかもしれないが「個人の見解は会社の見解とは違う、我々は多様なスタッフを雇用しているし差別は黙認しない。多様なセクシャリティアイデンティティを尊重する」というようなものであった。
建前は大事だ。建前でいいから、シリーズとして、会社としてのスタンスを知りたかった。自分は安心したかった。安心してゲームがしたいからだ。建前のコメントを待っていた。しかしこの回答を目にして、胸をなでおろすことができなかった。多様なスタッフを雇用していても、多様なプレイヤーは考慮していないんじゃないのか…としか思えなかった。積極的にスタンスを表明しなかったのは、差別の黙認でなくて何だったのか。

 

自分はゲームが好きだ。RPGが好きだ。子供の頃から憧れていたゲーム機なるものを自分で買って、本格的に遊ぶようになったのは大人になってからのことだ。ドラゴンクエストシリーズはプレイしたことのないものも多い。しかし初代PSのリメイク版ドラクエ4と、PS2ドラクエ8は特別だ。
実はマップ上に敵の姿が表示されないランダムエンカウント方式のRPGは割と苦手な方だ。単調なレベル上げ作業も苦手だし、今でこそゲームクリアまで数百時間かけたりもできるが、少し前までは長い大作RPGがやや苦痛だった。ドラクエ4も8もそこそこのボリュームで、自分には少し長かった。それでもどちらも2周以上したのだから、かなり没入していたのは間違いない。どちらも終わる頃には名残惜しくて、この世界にずっといたい…と思ったものだ。
ドラクエ8はシリーズではじめてグラフィックが3Dになり、美しく広大なフィールドが目の前に広がったときの「おお!」という気持ちは忘れられない。風景を見て回るのが楽しい!というのは自分にとってはかなり重要な要素だ。当時はゲーム機にスクリーンショットを撮るような機能がなかったため、携帯電話で画面の写真をたくさん撮ったりもした。自分は広大なフィールドを意味もなく走るのが好きだ。心地よい音楽に包まれながら、ただただ走っていく…ランダムエンカウントなのですぐ戦闘に入ってしまうのだが。やはり記憶をたどれば、あの空気感とともに音楽が蘇る。

最新作である11は据え置き機でオフラインという個人的に最高の条件を満たしているにもかかわらず、未購入だ。ゲームを積みすぎてとてもじゃないが手がつけられないというのもあるが、実は作中のキャラクターが少しひっかかっていて、なんとなく距離を置いていた。そのキャラクターはシルビアなのだが、調べたり探したりしなくとも、Twitterで情報がたくさん流れてきていた。断片的な情報から、正直ステレオタイプだと思った。よくあるオネエ像そのままのように見えて、プレイしてみようという勇気が出なかった。
しかしシルビアは自分の観測範囲内では非常に人気が高く、色々な人のツイートを見ていると、単にステレオタイプな描写だったわけではないようだ。プレイしていないので詳しいことは分からないが、とにかく作中でほとんどいじったり茶化したりしなかった、らしい。これは小さなことのようで、結構大きい。そしてそれはきっとたまたまではない。色々課題もありそうだが、ドラクエの世界も確実に一歩ずつ進んでいる… そう思っていた。

こうしてドラクエのことを書いていると、4も8も何度もやったのに結構ストーリー忘れてしまったな、1と2はタブレットに入れているはず…11も気になっている、プレイしたい!という気持ちがわいてくる。しかし、あの件を知らなかった頃に戻ることはできない。あの音楽とともにドラクエの世界に包まれれば、酷い言葉を思い出すことになる。
8はタブレットに移植版のアプリを入れていて、ちゃんとプレイするわけではないが、散歩に行くような気持ちでたまにだらだらいじったりしていたのだ。つい最近もやっていた。それももう、できる気がしない。あの世界は自分にとって気軽に散歩に行けるような世界ではなくなってしまった。

 

作品と作者は別、という言葉はよく聞く。自分も限度はあるけれども、そう思っていた。しかし例の件は自分にとっての限度を遥かに超えてしまった。Twitterやどこかで差別的な冗談を言ってしまった、みたいなものとは比べものにならない。自身の番組で、特定の属性についての支援は必要ない、自殺率が高くても優先順位が低い、生産性がない、そういった国会議員の主張を肯定する。国民的エンターテイメントの看板を(たとえ意図していなくても)背負って。これは脅威だ。
スクウェア・エニックスの回答にあるように、個人の見解と会社の見解は違う。どんな作品に関わっていようが、作品の外で個人の活動をするのは作品には関係ないし、自由だ。だが公に活動していながら、作品とは何の関係もなく一個人としての活動だと、自分は簡単に割り切ることができない。
先に述べた通り、その顔と名前で番組に箔がつくのは、これまでの作品あってこそじゃないのか。有名で偉大な作曲家だからこそ、そこに説得力が生まれてしまう。作者は自身の作品で得た名声を利用するのに、作品の受け手は作者の言動・行動と作品を切り離して楽しまねばならないのは理不尽だとさえ感じる。
これは素晴らしい作品の作者は素晴らしい人格であるべきで、完璧であれという意味ではない。作者の人格や思想が実際どうであるかは関係なく、作品で得た名声で多大な影響力を持ちながら差別的な活動に荷担することは、大きな問題があるということだ。重ねて言うが、今回の件は差別的な冗談を言ってしまった…というような次元の出来事ではない。
作品はその主張に荷担しないのだと、それこそ作品と切り離そうとするのならば、今後のことはともかくとして、少なくとも制作側はまず積極的にそのスタンスを表明せねばならなかった。しかし、しなかった。しばらく後に出した英語のコメントでは差別を黙認しないとあるが、明確に主張を否定してはいない。何故はっきりとスタンスを表明してくれないのだろうか。

どういう思惑か知る由もないが、思うに、このような騒ぎは会社や作品にとってたいしたダメージにならないと判断しているのではないだろうか。むしろ差別に荷担しないとはっきり表明する方がマイナスなのだ。今の日本はそういう社会だという実感がある。
海外版ドラクエ11の発売を控えながらあの回答というのはちょっと解せないが、騒ぎが大きくならないうちに沈静化するのを期待しているような印象だ。これは個人的に最悪に近い。まさかとは思うが、ああいった活動も多様性のひとつとして尊重するということだったのだろうか。可能性はゼロではないと思っている。件の番組は生産性という言葉があったから多くの人に刺さり、あそこまで問題視されたが、他の部分だけなら一意見として受け入れられそうな気がしてしまう。実のところあれをそのまま支持する者も多いだろう。今、この社会にとってたいしたことではないのだ。それが現状だ。
屋上屋を架すとすぎやまこういちは言ったが、実際には中に入れすらしない。異性同士の二人である場合のみ整備された屋内に入れる、そんな感じだろう。社会の仕組みは異性婚が基本になっていてそれ以外は想定されていないため、生活の上での困難は現実にたくさんある。カミングアウトすれば好奇の目に晒されることも多い。心無い言葉が飛んでくることだってある。他の国のように性的少数者がひどい暴力を受けたり殺されたりしないだけましだと思え、生産性のない者にはこれ以上の支援もいらない、正常でない者への理解を深める教育はいらない、これが強者の傲慢でなくてなんだろうか。

作品の内容そのものに関わる問題でないとはいえ、作品にとって重要なポジションの人物があれだけ差別的な主張に荷担している。子供の自殺の話にさえ笑いを挟む。それがたいしたことではないと捉えられている。あるいは重要なポジションであるために黙認されている。ダメージを受けたであろう当事者のプレイヤーへ何のフォローもない。自分はこれが一番こたえた。
エンターテイナーの一人が舞台の外でマイノリティの頭を踏みつけているのに、舞台の上ではマジョリティの客だけを見ながら何事もなかったかのようにショーが続けられる。そんなエンターテイメントをどうして楽しめるだろうか。嫌なら出て行け、そういうことなのだろうか。

 

自分はゲームが好きだ。スクウェア・エニックスの作品も数多くプレイしてきた(どちらかというとスクウェアの方に親しんできたが)。実は件の番組の動画が話題にのぼってきていた頃も、自分は同社から発売される念願のソフトをひとつ心待ちにしていた。
ゲームは時に救いだ。苦しい時を何度も救われた。自分を受け入れてくれる、自由に走れる世界が目の前に広がる。時に心地よく、時に心を奮い立たせる、そんな音楽に包まれながら世界を味わう、何よりも幸せなひとときだ。少なくとも自分にとっては。あの件を知ってから、その幸せな世界から拒絶されたような気持ちだ。大袈裟かもしれない、過剰に反応しているかもしれない。しかし自分はずっとそんな気分なのだ。
自分が購入しようとしていたのはドラゴンクエストではないし、同じ会社から出ているといっても別のシリーズだ。関係なく楽しむことができるだろう。例の件で購入を控えるのはとばっちりだ。それでも、今スクウェア・エニックスに金を払ってゲームを購入する気にならない。とても楽しみにしていた、ここ最近で一番楽しみにしていたタイトルだった。どっちみち耐え切れずに購入するだろうが、どうせならきっちり失望を言葉にしてから購入したい。はっきり言ってものすごく失望した。自分はかなり穏やかな方のゲーマーだと思うが、生まれてはじめてコントローラーを投げつけてやりたい気持ちになった。件の作曲家にも、だんまりを続ける会社にもだ。(もちろん国会議員の方も、それに関わる色々にもだが、ここではゲーマーとしての意見を述べたい)

 

本当は失望するまでもなく、自分は知っていたのだ。あの作曲家の活動も、謝罪や訂正などしないであろうことも、どれほどのことを言おうがすぐに忘れ去られることも、関わっている会社がスタンスを表明することなどないことも、マイノリティのプレイヤーなど想定されていないことも。自分に火の粉が降りかかってはじめて熱い熱いと騒ぎ始める自分自身にも思うところが色々とある。
これは国内作品全般に言えるが、作品内容からも疎外感はずっと感じてきた。最近あまり国内の作品を購入しないものの、断片的な情報から少しずつ歩みが進んでいるとは思う。しかし依然としてチクチクとステレオタイプを感じる。それを押し殺しながら、いつまで待てばいいのかという気持ちが強い。それは海外のゲームを多くプレイするようになったからでもある。自分のようにプレイする作品数の少ない者が言うのもあれだが、正直歩みは大分遅れているのではないか…。マイノリティへの配慮、というよりは多様な人間の想定だ。

そんな中で比較的保守的なイメージの強かったドラクエが歩みを進めたのには希望を感じていたのだ。しかし件の問題がこうして明らかになり、何か今後が検討されているのかどうか知らないが、積極的に何かしようという態度でもなく、定型文のような回答が英語で出ただけという、これはどうしようもなく絶望的だ。


もう海外の作品だけやってればいいじゃないかという気持ちはある。しかし翻訳が出るとは限らず、あっても細かいニュアンスが分からないことも多い。誤訳が多いこともある。バグで字幕が出なくて悔し涙を流したこともある。英語をしっかり学ぶには時間も体力も気力も足りない。それに国内の作品を楽しみたいという気持ちを失ってはいない。続編を待っているシリーズもたくさんあるのだ。もはや作品の内容がどうこうより、エンターテイメントを提供する側としての姿勢からなんとかしてほしい。これ以上幸せなひとときが奪われないことを祈っている。

*1:実生活上での性別が同じなら、と言ったほうが適切かもしれない 2021/7/22

熱き変革の魂!バーフバリネタバレレビュー!

 ここ最近、よく映画(映画館ではなく、自宅で)を観たり本を読んだりするようになりました。と言ってもどちらも月1作品くらいのペースですが、自分としては凄いことです。実は長時間集中力を維持するのが難しいタイプでして。
ちなみに、映画や書籍よりよっぽど集中力を要しそうですが、ゲームはまったく問題ないです。むしろ集中し過ぎるくらい。基本的に自分で操作してるからですかね。能動的に色々やらないと進んでくれないし。

 

というわけで、ついに「バーフバリ」を観たのですよ。巷で噂の「バーフバリ 伝説誕生」「バーフバリ 王の凱旋」を!

大胆で大袈裟な演出と気持ち昂ぶる歌の数々。素晴らしいですね!そして凄く、観やすい。これくらい派手にやってくれると、ポンコツな自分でも集中力の維持ができる。有り難い…。雰囲気や題材が非常に好みだし、大味なようで深みのある物語、悪役も含めた登場人物たち、非常に魅力にあふれてますね。以下、大幅にネタバレ含むので注意です。

 

正直、伝説誕生を観た時点ではそこまで乗り切れない感じだったんですよ。全体的には凄く好みだし、シヴドゥがシヴァリンガを持ち上げる場面とか、滝登りとか、在りし日のバーフバリが布を使って敵を殲滅する場面とか、結構好きなんですけど。

なんというか乗り切れない一番の理由はあれです、シヴドゥのアヴァンティカに対する悪戯が見てらんなかった。身体に落書きするの、1度のみならず2度やるし。
アヴァンティカの服をくるくる脱がして化粧をほどこす演出も面白いといえば面白いけど、お前はアヴァンティカをバカにしてんのか?という思いがどうしても拭えなかった。

まあ、シヴドゥはこの時点ではまだちょっと…アホなのですが。それにしてもアヴァンティカは重要な作戦を任せられるほどの戦士なのに、翻弄されるばかりで自分にとっては見ててキツい演出でしたね。

まあ、アヴァンティカは自分自身の姿を気に入っていない様子などが描かれていたし、クンタラの生き残りとして戦わねばならなかったのであって、戦士というのは真に望んだ姿ではなかったのかもしれない。王の凱旋で描かれていたような、王族であり、自ら望んで武術を学ぶデーヴァセーナとはそこらへん全然違うわけですよね(デーヴァセーナにも民を守らねばという使命感があったと思いますが)。
なので、きらびやかさへの憧れみたいなものがあって、わずかでもそれを見せてくれたシヴドゥと恋に落ちるという展開自体は分からんでもない…というかすべてにおいて超展開するので、突っ込みようなどないんですけどね。ただ描写としてアヴァンティカにもうちょい敬意を払ってほしかった。

それにアヴァンティカの勇姿をもっと見たかったんですよ、自分は。せっかく魅力的なキャラクターだったので。派手なアクションシーンが初登場時くらいなのは本当に惜しい。

 

そんな感じで面白かったけど何か納得しきれないまま伝説誕生を見終えて、後日王の凱旋を観たのですが、これが…素晴らしいんですよ!
この作品はとにかく終始バーフバリが半端ない!!ということに尽きるんですけど、王の凱旋を観て、この作品には "変革" してゆくことに対してとてつもなく熱い思いが注がれているなと感じました。

それと2作をまたいでほとんど過去の話ってたぶん結構変わった構成だと思うんですけど、それでいて、まずおおまかに表面的なことを見せてそれからだんだん掘り下げていき、大きな流れへと向かっていくという、物語の基本的なところがすごくきれいだなあというか。

しかし印象深いのは痴漢の首が切り落とされていることでしょうかね。前作のシヴドゥの行動は結果オーライとはいえ痴漢みたいなもんだと思うんですけど…これって過去の父にぶった切られているようなものでは。
自分が何者であるか分からなかったシヴドゥは、過去を知ることで初めて "バーフバリ" となり、そして国を変えていくことになるわけですが、過去の物語そのものがシヴドゥの変化の過程であるとも言えるんじゃないでしょうか。


それにしても王の凱旋、権力者に対して直接異を唱える場面が多いです。デーヴァセーナの切り込み方は特に凄まじい。細かいところを見ればバラーラデーヴァに "お言葉ですが…" と意見する臣下がいたりする。しかしシヴァガミがはねのけちゃうんですね。常に正しいはずだったシヴァガミの過ち、栄華を誇る圧倒的大国と権力の迷走、腐敗、それに異を唱え、正す!そういう表現が物凄く力強い。前作からは想像できなかったほどの鋭さを持って切り込んでいく。しかし前作がなければこれほどの鋭さを発揮できなかったのではとも思うんですよね。やはり伝説誕生あっての王の凱旋。

デーヴァセーナの存在は本当に大きい。「バーフバリ」の魅力の半分以上がデーヴァセーナにありますね…個人的には。民を守り、強いものには立ち向かう。清々しいほど、デーヴァセーナは一歩も引かない!
強く誇り高く、これでもかってくらい煽っていく若き日のデーヴァセーナも大変素晴らしいのですが、囚われ虐げられ、復讐の権化となったデーヴァセーナも好きです。こちらは前作にも登場してますが、積年の恨みを感じさせますね…。
生首を手にバラーラデーヴァの前に再び現れたときの姿、圧巻です。そしてその後ろには、死んだはずのバーフバリと瓜二つの男!首はバラーラデーヴァの息子のもの。うん、怖いですね。バラーラデーヴァにとっては悪夢的な光景です。

白鳥の船に乗って旅立つ場面のデーヴァセーナも本当好きですね。というか、あの曲一番好きなんですよ。歌の中で自分の名前を名乗るのもなんか最高ですね。「私はデーヴァセーナ」。揺るがぬ信念を持った人物ですが、見せる顔は非常に多面的です。


ところで、実は自分が一番興味をそそられたキャラクター、バラーラデーヴァだったりします。物語は悪魔祓いを表していて、彼がその悪魔にあたるわけですが、純粋な悪…と呼ぶにはちょっと複雑な要素が多いような。
才に恵まれながらもバーフバリの前にはかすんでしまう。どうにもならない歪んだ感情、劣等感の塊ですね。真に愛情を持って情けをかけてくれそうな人物(アマレンドラやシヴァガミ)を葬り、よりにもよって25年も虐げ生き晒しにしたデーヴァセーナに命乞いをするあたり、なかなか哀しい奴です。
ブルーレイに収録されていたメイキングで人物像が語られていましたが、それも面白かったです。個人的には若い頃より白髪混ざりバラーラデーヴァが好きですね!あと、本気出すときわざわざ脱ぐのいいですね。憎い奴の殺し方にもこだわりを感じます。


あとクマラも本当いいキャラだった…哀しいけど。あんな状況の中で、気の弱さを抱えながらあそこまでやったの、ある意味最も勇気ある人物だった気がします。それに素直なんですよねえ。それが命取りになるんですけど…。アマレンドラが追放されてからも一緒に民の中にいるところがまたよいですね。
アマレンドラとデーヴァセーナ、そこにクマラもいて、民の中で共に働き、歌い、生きる。追放されてからのあのひとときが好きです。ずっとあのままだったらよかったのに、と思ってしまう。…あのパーティでそのまま冒険に出ればいいのに!あ、妊娠中は難しいか。

 

さて、この作品、主人公はバーフバリであり、バーフバリを称える物語であることに間違いはないでしょうが、物語を引っ張っているのは誰か?というと、カッタッパなんじゃないでしょうか。
過去編の語り手はカッタッパですから、この作品で描かれるのは彼が知る彼の視点でのバーフバリです。彼がシヴドゥを導き、バーフバリへと "変革" させ、敵を打ち倒し、国を "変革" する。カッタッパがシヴドゥを導かなければ、新たな時代のバーフバリはバーフバリとして現れないのです。シヴドゥは最初から大きな力を備えていますが、それだけでは足りない。カッタッパが新たなるバーフバリを作り上げたと言っても過言ではないでしょう。
「バーフバリ」は偉大なる王の物語であると同時に、重い罪を背負うことになった奴隷の、贖罪と変革の物語…と、解釈しています。
カッタッパも非常に熱いキャラクターですよね。常に忠誠を尽くしてきた彼が、シヴァガミの手に血を塗り、あなたの過ちだと言い放つ場面は震えるほど強烈でした。王家の奴隷ではありますが、隷属しているわけではない。王だけでなく、自分はカッタッパも称えたいですね。

 

「バーフバリ」はアクションも演出も物凄く派手で、常に主人公側に追い風が吹いているような都合のよさで展開していきますが、人間ドラマとしては非常に複雑で、繊細な印象でした。ベタな設定と物語でありながら、圧倒的に面白く、丁寧で、信念がある。

それと、この記事では触れませんでしたが、インドの神話の要素をかなり含んでいるみたいですね。知識がないので詳しく読み取れないですが、このへんはあれを表してるのかな?と思える場面が複数ありました。多分、無数にありますよね、これ。とりあえず有名どころの「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」を電子書籍で購入してみましたが、読んだら「バーフバリ」の見え方も変わるかもしれないですね!

 

 

(ちなみに、アヴァンティカがもっと観たかった…という思いは成仏していません)

 

 

 

 

 

 

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